月夜の星(3)



 リザは、寒さにぶるっと身震いして目を覚ました。どうやら、泣いているうちに眠ってしまったらしい。
 部屋は真っ暗で、背中には一枚、毛布が掛かっていた。こんなことをする人はひとりしかいない。
 軍人になって雰囲気は随分変わったけれど、ロイ・マスタングのお人好しはちっとも変わらない。
 会えば分かると父はただ繰り返したが、彼と久しぶりに話をして、改めて父の言葉は信ずるに足るものであるとリザは悟っていた。

 マスタングさんは、リザの大好きだったマスタングさんのままだった。
 昔から、父さんと揉めて家を飛び出すと、迎えに来てくれるのはいつも彼だった。リザはとうに諦めているというのに、あの人はぎくしゃくした親子関係を何とかしようと、未だにしなくてもいい気苦労ばかりしている。
 マスタングさんは優しい人だ。
 リザが父の秘伝の在り処を知っていると承知しているはずなのに、一度もその話題に触れてこない。他に誰も居ない鬱蒼とした木立の中の一軒屋で、身寄りのない小娘一人、どうとでも出来る立場でありながら、強引に問い詰めてくるということも一切無かった。自分の肌にその全てが刻まれているなんて、聞かれたらどうやって説明しようかとリザは血の気の引く思いをしていたので、彼の紳士的な態度はとても助かる。
 おまけに、リザがいつまでも呆然としている一方で、マスタングさんは着々と父の葬儀の手続きを進めていた。師匠のためなら弟子として出来ることは何でもするの一点張りで、葬儀の費用がいくら掛かったのか、どこへ支払えばいいのか、一切教えてくれない。自分の父親の葬儀も満足に出来ないなんて申し訳なくも恥ずかしくも思ったけれど、手元の不如意なリザには、正直、ありがたくて涙が出そうだった。

 このまま、マスタングさんがここにいてくれたら、どんなに心強いだろう……。

「――それだけはダメ」
 彼の厚意に付け込むようなことをしてはいけない、とリザは自分に言い聞かせた。
 秘伝がリザの背中にあると知ったら、お人好しで責任感の強いマスタングさんは絶対に、将来結婚しようと言い出すに違いない。師匠の秘伝だけを受け取って、一生消えない火蜥蜴を背負ったその娘を放り出すような真似は、あの人には出来ない。
 マスタングさんは、士官学校を出たばかりの前途洋々とした軍人さんだ。あの人には、あの人に似合いのひとがきっといる。――私達親子が利用するような真似だけはしてはいけない。

 リザの背中には、世界を滅ぼす力を持った火蜥蜴が棲みついている。
 まかり間違えば秘伝の継承者をも滅ぼしかねない力だと父は言った。

 ……もう、誰も死ぬのは嫌だ。
 この秘伝は、私があの世まで持っていく。


 * * *

 リザの父の野辺の送りは、それなりに賑やかなものになった。
 ロイが連絡した錬金術師達からは次々と弔電が届き、リザと仲の良かったクラスメート達が学校が終わるなり駆けつけて来てくれた。隣家の主婦が知らせてくれたおかげで、かつてホークアイ夫妻の世話になったという町の人々も加わり、町のはずれの墓地までゆるゆると葬列は進む。
 隣家の主婦が若い頃に着たという黒い礼服を借りていたリザは、出来るだけしゃんと頭を上げるようにしていた。――でないと、首の後ろが見えてしまう。
 その姿は、周囲からはとても気丈に見えた。
 さすがは立派な錬金術師の先生のお嬢さんだ、しっかりしてなさる、と町の住人は囁き交わす。森の幽霊屋敷に住むという偏屈と評判の極貧錬金術師が、新聞に名前の載るような高名な錬金術師達から弔電が届くような立派な人物だったとは、誰も思ってはいなかったのだ。
 その無責任な賛辞を小耳に挟みながら、ロイにはリザの様子が心配でならなかった。
 昨日はずっと呆然としていたリザが、今日は朝からずっと、ぴんと張り詰めた空気を漂わせている。せめて葬儀が終わるまでは彼女の緊張の糸が切れてしまわないようにと、ロイは師の魂に加護を願う。

 春先の風は冷たかったが、日光は春のぬくもりを取り戻していた。
 午後の穏やかな光の中、妻の墓の隣に掘られた穴に棺が下ろされる。
 朝のうちに級友が総出で摘んでくれたというスミレの花籠を手に、たった一人残された故人の娘が歩み寄り、棺の上に紫色の可憐な花を撒いていく。
 やがて籠の中が空になっても、凍りついたように少女はそこを動かなかった。
 あまり長い間動かないので会葬者からざわめきが起こり始めた頃、青い軍服の上に黒いコートを羽織った若い男が歩み出て、彼女を墓穴の縁から引き離す。
 そして手順通り棺に土が被せられ始めるや、少女は男を振り切って再び父の元へ駆け寄ろうとした。
 しかし強く引き戻した男が、ぽろぽろと泣く少女に黙って首を振る。

 ――可哀想にねぇ。
 ――おいくつ?
 ――まだ十三歳だとさ。
 ――まぁ、そうなの。
 ――ホークアイ先生もお気の毒にねぇ。
 ――あんな可愛いお嬢さんをねぇ。
 ――あの軍人さんは何者なんだい?
 ――ホークアイ先生のお弟子さんですって。
 ――あの先生にお弟子さんがいたの?
 ――ほら、何年か前、先生のところの買い出しって、大荷物背負って歩いてた男の子がいたじゃないか。
 ――あぁ、あの子かい!
 ――随分と立派になったもんだねぇ。
 ――イーストシティのいいとこの坊ちゃんらしいよ。
 ――へぇ、大したもんだねぇ。
 ――全くねぇ。

 結局、リザが取り乱したのはその時だけで、葬儀は滞りなく終了し、会葬者は歳若い喪主へ思い思いのお悔やみを述べると、立ち去って行った。




 花の置かれた師匠の墓の前で、ロイは師匠の娘と二人、並んで立った。
 当初の予定通り、今日のうちにイーストシティへ戻るなら、そろそろ自分も出発しなければならない。
 しかし、リザをこのまま一人で置いておくのはあまりにも心配で、どうにも立ち去りかねた。
「……他の家族や親戚はいないのか?」
 誰もいないとリザは首を振る。
 ロイは、彼女に親戚があろうと無かろうと、彼女自身が何と言おうと、経済的な援助は自分がしようと決めていた。それが、師匠の期待に応えられない不肖の弟子の、せめてもの罪滅ぼしだ。
 問題は、これからの彼女の身の振り方だった。隣家まで二キロもある荒れ果てた寂しい屋敷で、十三歳の女の子に一人暮らしをさせるのは、あまりにも無用心に過ぎる。
 もし彼女が望むなら、秘伝の件は別にしても、自分が保護者として彼女を引き取り、成年に達するまで面倒を見るのも悪くないとロイは考えていた。
 三年間の士官学校生活で、寮の暮らしにはもううんざりしている。かといって、一人暮らしも味気ない。リザが同居人にうってつけであることは、師匠の家に住み込みをしていたときに充分承知していた。

 しかし、あくまでも決めるのは彼女だ。

「君はこれからどうする?」
 父の秘伝の継承者が発した問いに、リザは、これから考えますと答えた。飛び級を何度かしたので、元からこの春には学校を卒業する予定になっている。働きに出るのに何の不都合もない。お金は殆どないけれど、もう父の医療費が必要になることもない。
 父の遺言を思えば、私も一緒に連れていって下さいとマスタングさんに言うべきだ。――しかし、どうしてもリザにはそれが出来なかった。
「一人でなんとか生きていけると思います」
 リザの言葉に、ロイはただ、そうかとだけ答えた。
 無理もない。この子と優しい気持ちを育てていくには、あまりにも時間が足りなかった。幼くとも誇り高い師匠の娘は独立独歩を選び、――そして、秘伝は幻のまま消えていく。本当に残念だ。
 彼女に選ばれなかった以上、もはやリザの道が開けるのを陰ながら見守るべきなのだろう。せめてものことと、彼女に出来たばかりの名刺を渡しておく。甘え下手なリザが自分に頼ってくれることなど無いのかもしれないが、この世にひとりぼっちではないということを分かってくれればそれでいい。
「何か困ったことがあったら、いつでも軍部に訪ねてくるといい。私はたぶん一生軍にいるから」
「一生……ですか?」
 何気ない彼の言葉に、リザは激しく戦慄した。
 一生、ということは死ぬまで、ということだ。マスタングさんは軍人で、危ない仕事をするのだということは分かっている。――でも、この人までなんて、そんなの耐えられない。
「死なないでくださいね?」
 泣いたばかりの目に必死の色を浮かべて哀願するリザに、ロイは改めて自分の立場と決意を思わずにはいられなかった。
「……保障は出来ないよ」
 父の墓碑を見下ろした彼の横顔に、リザの目は釘付けになる。
「こんな職業だから、いつか路傍でゴミのように死ぬかもしれない。――それでも、この国の礎のひとつとなって皆をこの手で守ることができれば、幸せだと思ってるよ」
 己の死を語る父の言葉を聞かされた時とはまた違う痛みで、胸が締め付けられた。

 それが幸せだというなら、どうしてこの人はこんな寂しい顔をするんだろう?
 この人が死なないで済むためにはどうしたらいいの……?

 ふっつりと黙り込んでしまったリザに、ロイは自分があまりにも饒舌になりすぎていたことに気が付いた。ついつい勢いとは言え、師匠の墓の前で未練がましく愚痴を言ってしまったのも失敗だった。
「……いや、青臭い夢を話してしまったな」
 気まずい思いをそんな言葉でごまかそうとしたロイに、リザは生真面目な声でいいえと答えた。
「素晴らしい夢だと思います」

 「焔の錬金術」は最強で最凶の錬金術だから正しく使おうとする者に託せと、リザが最も信頼する錬金術師は言った。そうすれば、この秘伝は多くの人々を幸せにする、と。
 自分のことを青臭いとマスタングさんは言うけれど、あんな目をして理想を語る人が、父の秘伝を私利私欲のために使うとは思えない。
 「焔の錬金術」があれば、皆をこの手で守りたいというこの人の願いは叶うに違いない。

 ――リザや。

 父さんはマスタングさんに秘伝を託したがっていた。
 マスタングさんは秘伝を知りたがっている。
 何より、自分の身ひとつしか持たないリザがマスタングさんのためにしてあげられることなど、これより他には何ひとつ無い。

「父の残した秘伝は、並の錬金術師には解読できない暗号で書かれていると言ってました」

 私のことはどうでもいい。――だからお願い、この人まで連れて行こうとしないで。
 もうこれ以上、誰にも死んで欲しくなんてない。

「マスタングさん。その夢……、背中を託して良いですか?」

 ――リザや、苦しいだろうが我慢しなさい。これさえあれば、お前も沢山の人を幸せに出来る。

「皆が幸せに暮らせる未来を信じて良いですか……?」

 お願い、うんと言って下さい、マスタングさん。
 そうすれば、私は父の秘伝の在り処を貴方に教えてあげられる……!

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